稲村ヶ崎から小動岬までの海浜約2900メートルを七里ガ浜といいます。歴史書によっては七里灘(無尽蔵)、七里
七里ガ浜の由来
七里ガ浜の由来は、「これが正しい!」という説はありませんが、七里という実際の距離からではなく、「長く続く砂浜(道のり)」という意味合いで名付けられた可能性が高いです。詳しくは七里ガ浜の由来をご覧ください。
七里ガ浜の歴史
『新編鎌倉志』によれば、この浜を「古戦場なり、今も太刀、刀の折、白骨など砂に混じって有るという」と伝えてあります。
七里ガ浜が古戦場であるという記録
●1221年(文久3年)8月 ※吾妻鏡
七里ガ浜の一部の
●1226年(嘉禄2年)8月 ※吾妻鏡
賊徒
●1410年(応永17年) ※大草紙
新田氏の子孫某が千葉
●1450年(宝徳2年)4月 ※大草紙
鎌倉
江戸時代の七里ガ浜
江戸時代になると七里ガ浜は、江の島と鎌倉を結ぶ観光ルートとなりました。観光客を相手とする茶店などが稲村ガ崎付近に現れました。七里ヶ浜から江の島・富士山を望む光景は、歌川広重の「相模七里ヶ浜」といった浮世絵にも多く描かれています。
しかし、大山〜藤沢〜江ノ島〜七里ガ浜〜鎌倉、と続く当時の観光ルートのなかで、七里ガ浜あたりは道というより砂浜を歩いていくイメージだったと思われます。
行合川も現在ほど水量がなく、橋もなかったので、いわゆる「洗い越し(=川に橋を架けずに道路と川が平面交差している構造のこと)」になっていました。稲村ガ崎にある音無川のような感じでしょうか。旅人は波打際で迫り来る波を楽しみながら、そして時には貝を拾いながら歩いていたという記録もあります。
お金に余裕がある旅人は、七里ガ浜を往来する馬に乗ったり、船で向かったりしたのでしょう。また文献によっては、七里ガ浜の景色で「昨夜の酔いが覚めた」などという称賛まで確認することができます。
砂鉄を多く含んだ七里ガ浜の砂
七里ガ浜の砂は砂鉄を多く含んでいて、『新編鎌倉志』も「
七里ガ浜の地震の記録
●1498年9月11日(明応7年8月25日) 明応地震
明応地震による大津波が来襲しました。大仏殿(高徳院)流失の記録もあるので、七里ヶ浜の被害も大きかったと推測できます。
●1703年12月31日(元禄16年11月23日) 元禄地震
元禄地震による大津波が来襲しました。この地震でも津波によって大仏殿(高徳院)が流出しています。
●1923年9月1日(大正12年9月1日) 関東大震災
関東大震災による大津波が来襲しました。七里ヶ浜にも津波が押し寄せました。現在の七里ガ浜高等学校付近では、「丘陵斜面の松林に引っ掛かった海藻が江ノ電の車窓から見上げられるほどだった」という記録もあります。
逗子開成中学ボート遭難事故
1910年(明治43年)1月23日、七里ヶ浜沖で逗子開成中学のボートが転覆し、生徒12名が亡くなるという事故が起きました。その日は休日で教師の監視も行き届いておらず、子供達は無断で学校所有のボートを持ち出し、逗子開成に近い鐙摺(あぶずり)海岸から江の島へ向かいました。
午前9時半ごろ出発した船は、七里ヶ浜の行合川の沖合い1.5キロ辺りで、強い突風に煽られ転覆しました。冬の季節に七里ヶ浜の沖に吹く風「ならい(地元の漁師たちの言葉)」によって転覆しました。
遭難事故が発覚した午後、漁師たちが悪天候の中、漁船を繰り出しましたが、海に投げ出された少年たちを発見することはできませんでした。遭難事故の翌日、横須賀軍港から掃海艇が派遣され、12名の遺体が発見されました。その遺体の中には、中学生の兄が小学生の弟をしっかりと抱きかかえた姿もありました。
のちに同校教諭の三角錫子の作詞で鎮魂歌として「真白き富士の根(七里ヶ浜の哀歌)」が作られ、遭難地点に近い稲村ヶ崎に慰霊碑が建立されました。
七里ガ浜団地の形成と柴崎牧場
1960年代になると鎌倉周辺の大型宅地造成が活発化し、現在の七里ヶ浜東に西武七里ヶ浜住宅地が開発されました。それに伴い人口も急増していきました。山を切り崩し、大量に発生した土砂は、七里ヶ浜の海岸に不法投棄されてしまい、それが現在の七里ヶ浜海岸駐車場になっています。
また現在の七里ヶ浜高校の裏には当時、柴崎牧場という牧場がありました。江ノ電の車窓からも、牛が放牧されているのどかな光景が見られたともいいます。昔は外国人などが鎌倉に別荘を構えており、その外国人の舌を満たすためには乳製品が欠かせませんでした。柴崎牧場はそのような外国人へミルクなどを届けるために作られました。
柴崎牧場は創業1917年(大正6年)ごろで、最初は長谷にありました。その後七里ヶ浜に移りましたが、現在長谷には1889年(明治22年)創業の牛乳屋である「柴崎商店」があります。