稲村ヶ崎から小動岬までの海浜約2900メートルを七里ガ浜といいます。歴史書によっては七里灘(無尽蔵)、七里(ばま(鎌倉志)、七里浦(湘中紀行)とも書かれています。

文献からみる七里ガ浜の由来

金兼藁(きんけんこう(1659年)
二十余町の海浜を歩くのは、平地の七里を歩くのと同等に難儀するもので「七里難」を名付けた、と記されています。

新編鎌倉志(1685年)
稲村ヶ崎より腰越までの間を七里(ばまという、関東道七里有、故に名く、と記されています。

四親草(よしみぐさ(1835年)
此浜にかきりて六丁一里也、唐数なれば・・・、と書かれているように、六町一里の数え方は中国の唐制によるもので、大道の一里は三十六町、小道(下道・関東道)の一里は六町になります。

一里は何メートルか?

七里ガ浜の由来を紐解くには、まず「一里は何メートルか?」を理解しておく必要があります。「里」という単位は元々中国で”人が歩く時の一歩の幅”から計算されていたので、その定義は曖昧で時代によって変化してきました。ここでは簡単にまとめています。

【一里の長さ】
(中国)周・漢〜清の時代 →400m程度(1歩は1.3m余り)
(中国)清朝滅亡後    →576m
(日本)古代       →533.5m程度(1里=5町=300歩)
(日本)中世・近世    →545m〜655m程度(1里=おおむね5町〜6町)
 ※豊臣秀吉が36町里(≒3927m)に基づく一里塚を導入したので、一里は約3927mとされた。
(日本)近代・現代    →約3927m(1里=36町=12960尺=3.927km)

このように日本では、一里の長さは「6町の里」「36町の里」の両方が存在していることがわかると思います。とても分かりにくいですね。ですので、分かりやすくするために「小道(一里=6町)」「大道(一里=36町)」に区別しました。また小道は東国で使われ、大道は西国で使われました。

小道(一里=6町)  東国で使われた(坂東道、東道、田舎道とも呼ぶ)
大道(一里=36町)  西国で使われた(西国道、上道とも呼ぶ)

説明が長くなりましたが、七里ガ浜は東国で小道が使われていた名残になります。

結局のところ・・

七里ガ浜における一里は、小道(一里=6町=655m程度)が採用されていたので七里は約4585mということになります。しかし冒頭で書いたように稲村ヶ崎から小動岬までの間は約2900mしかありません。ですので実際の距離から命名されたとは言い切れないでしょう。

本来「七里」には「長い道のり」の意味があります。例えば千葉県の「九十九里浜」や桑名市の「七里の渡し」といった地名は長い道のりを例えて名付けられています。それらと同じく七里ガ浜も”長く続く砂浜”と例えられたのでしょう。

また近年では「これは鶴岡八幡宮と腰越の間の距離であり、『浜七里』と呼んだ」という説が出されました。これは密教の「七里結界」に基づくものだそうです。「七里結界」とは、密教において魔障を入れないように、七里四方に境界を設けることです。

つまり鶴岡八幡宮から腰越の方向は「裏鬼門(南西)」にあたり、7里の腰越までが浜七里と呼ぶということです。さらに鶴岡八幡宮から横浜市栄区の方向「鬼門(北東)」には、野七里という地名が現存しています。

○鶴岡八幡宮〜腰越の方向    →裏鬼門(南西) 浜七里
○鶴岡八幡宮〜横浜市栄区の方向 →鬼門(北東)  野七里(現存する地名)

ちなみに鶴岡八幡宮から横浜市栄区野七里まで直線距離で結ぶと七里ほど距離はありませんが、朝比奈切通し経由で歩くとそれなりの距離と労力が必要になります。

七里ガ浜の由来は「これが正しい!」という説はありませんが、七里という実際の距離からではなく、「長く続く砂浜(道のり)」という意味合いで名付けられた可能性が高いです。また「浜七里」といった最近出てきた説も大変興味深いところであります。