江ノ電鎌倉駅から1駅目にあたるのが和田塚駅で、その和田塚駅から南方100メートル余りのところを和田塚といいます。
和田塚の由来
和田塚の由来は、和田
和田塚の場所は、江ノ電和田塚駅から由比ヶ浜方面へ歩いて1分ほどにあります。
和田塚の歴史
1213年(建暦3年)の和田合戦
和田塚は1213年(建暦3年)に起こった、北条義時と和田義盛による武力衝突(和田合戦)に敗れた和田一族の戦死者を弔ったものと推定されています。
当時の鎌倉幕府は、北条氏による専制政治が行われるためには、周辺の有力御家人を倒す必要がありました。北条時政・義時親子は、比企能員、畠山重忠を倒し、次の矛先は三浦一族・和田一族に向かっていました。
北条義時は、和田一族に対して、度重なる挑発を繰り返していました。例えば、甥の和田
そういった北条義時による度重なる挑発に我慢できず、和田義盛は1213年5月2日に義時討伐の兵を挙げます。
挙兵に際して最も頼りにしたのが、本家に当たる三浦義村.
和田義盛は土壇場で三浦氏に裏切られる形となったのです。
5月2日の鎌倉市街は激しい戦闘が繰り広げられました。元々和田一族は武勇として知られていて、特に三男の朝比奈義秀は最もめざましく戦ったとされています。
和田一族は、軍兵150騎で幕府を攻撃し、一時は優勢でしたが、翌日幕府についた援軍に次々と討たれ、四男の愛息義直が打たれると、和田義盛は声をあげて悲嘆号泣したそうです。
そこへ江戸義範の郎党が襲いかかり、和田義盛も討ち取られました。
その際に戦死した和田一族の遺体を葬った場所が和田塚とされています。
和田一族が葬られる以前は?
和田一族の墓とされる和田塚には、お墓以外にも「戦没者慰霊塔」、「大震災殉死者供養碑」、「南無妙法漣蓮華経」など大小の石碑や、たくさんの五輪塔・仏像・馬頭観音などが並んでいます。
和田合戦で敗れた武士を弔うだけでなく、様々な時代で亡くなられた方の慰霊塔、供養碑が建てられてきました。
当時周辺にはかつて下向原古墳群と呼ばれる古墳群があって、和田塚自身も
1892年(明治25年)に周辺で行われた道路工事の際には、埴輪の男女像や馬像、それにおびただしい人骨が多数出てきたことでも知られています。
その人骨が「おそらく和田合戦の時のものであろう」と言う推測のもと、「和田一族戦没地」の石碑が立てられました。
そして1907年(明治40年)に江ノ電和田塚駅が開業しました。