江ノ電の長谷駅と稲村ヶ崎駅の間にある駅を極楽寺駅といい、駅のそばには真言律宗の寺院「極楽寺」があります。山号は
極楽寺の由来
極楽寺という地名が採用されたのは1969年(昭和44年)で、由来はその名の通り、寺院「極楽寺」に起因します。
極楽寺の歴史
極楽寺は鎌倉唯一の真言律宗の寺院で、開山は
極楽寺の草創
1259年(正元元年)、2代執権北条義時の3男である北条重時であるが創建しました。もとは深沢(現在の鎌倉市西部)にあった寺院(ある老僧が建てた草堂)を現在の場所に移したという記録があります。(極楽寺縁起)
現在の場所に極楽寺が建てられたのは、今では想像できませんが、当時そこには死骸が遺棄されたり、行き場を失った者たちが集まったりするまさに「地獄」のような場所で、「地獄谷」と呼ばれていたからです。
北条重時は出家した後、邸に極楽浄土の姿を現そうとして大寺建立を思い立って、1259年(正元元年)に造営を始めました。ところが造営途中に重時は亡くなりってしまいます。その後、重時の子である長時と業時が父の志を継いで完成させました。
忍性の入寺
北条重時が日ごろより崇敬している忍性を招いて、地獄谷と呼ばれていた当地に創建しました。1267年(文永4年)に忍性は実質的な開祖として極楽寺に入寺したとの記録があります。(忍性菩薩行状略頌)
「
忍性が入寺した後は、幕府の保護を受けて更に整備されました。
「極楽寺由緒沿革書」や「極楽寺古絵図」などによれば、最盛期には七堂伽藍・四十九の支院・十二社を構える鎌倉有数の規模を誇っていました。
特に「古絵図」中には、境内施設に病宿・施薬院・薬湯寮・馬寮屋などが確認できます。これは忍性が、社会事業を普及活動の中心に据えて、不幸な人を救済する医療・福祉施設としての役割を果たしていた証です。それによって忍性は人々から医王如来と崇められました。
忍性が障害に改修した道路は約250箇所、多数の橋を架けるとともに、約57000人の病患者を収容・診察したといいます。このため鎌倉幕府は、下農民や職人の統轄を当時に委ねました。ちなみに由比ガ浜の和賀江島の管理支配も認められました。
度重なる天災
●1308年(徳治3年)の火災
●1425年(応永32年)の火災
●1433年(永享5年)の大地震
●1572年(元亀3年)の大火
2〜3の堂を残して、ことごとく焼失したという記録があります。
●1923年(大正12年)の関東大震災
本堂が倒壊するなどの大きな被害に遭いました。
現在の極楽寺
現在は焼失を免れた吉祥院が本堂となって残っています。かつて広大な境内であった大部分は、稲村ヶ崎小学校や住宅街になっています。