鎌倉の由比ガ浜と七里ガ浜を分けるように突出した岬を稲村ヶ崎といいます。

稲村ヶ崎の由来

稲村ヶ崎の由来は、その形が稲束を積み重ねた稲叢(いなむらに似ていることからその名が付いたという説が有力です。詳しくは稲村ヶ崎の由来をご覧ください。

稲村ヶ崎の歴史

頼朝の鎌倉入り

鎌倉時代、源頼朝の入部以前より稲村の地名は見受けられており、1180年(治承4年)8月、伊豆において頼朝が挙兵した際、三浦一族が頼朝と合流するために通った経路の内に見え(源平盛衰記)、極楽寺の切通しが開通する以前、鎌倉から西方面との往来には稲村ヶ崎を通行しなければならなかったようです

1191年(建久2年)2月には、頼朝が二所詣(にしょもうでに出発した際、稲村ヶ崎で行列を整えたと記されています(吾妻鏡)。これ以後になると、様々な史料に稲村ヶ崎の地名は散見されるようになります。

『海道記』などの記述では、稲村ヶ崎の通行には岬の周囲を伝い歩くしか手段がなかったようで、かなりの難所であったことがうかがえます。しかし山越えの道筋もあったようです。

頼朝の鎌倉入り当初からしばらく、鎌倉の最西端は現在の長谷駅近くの稲瀬川とみられていましたが、1224年鎌倉で疫病が流行した際、北条泰時は鬼気祭を催して、鎌倉の最西端を稲村と定めているので、この頃にはすでに鎌倉の領域は稲村あたりまで広がっていたことがわかります。

新田義貞による鎌倉攻め

稲村ヶ崎を最も著名にしたのは1333年5月、新田義貞による鎌倉攻めに関する故事でしょう。要害の地であった稲村ヶ崎を通過するのに手を焼いた義貞は、黄金の太刀を海中へ投じて竜神に記念したところ、潮は二十余町も引いて、易々と鎌倉に攻め入ることができたということが記されています(太平記)。

もう少し詳しく説明すると、1333年の5月18日に新田義貞は極楽寺口から攻撃を加えて、5月21日には義貞自ら稲村ヶ崎の海岸を渡ろうとしました。しかし当時の稲村ヶ崎の波打ち際は鋭い崖になっていたため、道というものがなく、岬を超えることができませんでした。そこで義貞が黄金の太刀を海中へ投じたところ、潮が引いて鎌倉へ攻め入ることができたということです。

しかし近年において天文計算により、稲村ヶ崎の潮が引いたのは18日のことであったことが明らかになり、『太平記』の日付には誤りがあると考えられています。

この鎌倉攻めの際、義貞の一族であった大舘宗氏(おおだちむねうじ以下11人の将士が極楽寺口で打ち取られたと言われています。稲村ヶ崎近くにある十一人塚の碑は、その慰霊のために1862年(文久2年)に建てられました。

近世以降

1857年(安政4年)の稲村ヶ崎には外国船監視のための台場遠見番所が置かれました。その防衛は長州藩が担当したようです。

その後、明治時代に入り、岬とその周辺地域は、極楽寺に属していました。

1928年(昭和3年)には県道片瀬鎌倉線(現在の国道134号)の開削工事が行われました。これによって稲村ヶ崎の丘陵が分断されて、現在のような切り通しが開かれました。また1934年(昭和9年)に新田義貞徒渉の伝説地として国史跡に指定されて、隣接する公園には新田義貞の記念碑が建てられています。

稲村ヶ崎には太平洋戦争の末期に、帝国陸軍が本土決戦に備えて作った師団の基地がありました。現在でも確認することができますが、岬の岩壁の真ん中に人工的に造られた長方形の穴(砲台跡)手彫りの洞窟があります。ここに伏龍隊の地下基地がありました。

●伏龍隊とは?
幻の海底特攻隊ともいわれています。特攻隊といえば航空機「ゼロ戦」が有名ですが、海底から突入する特攻隊もありました。今では本当に考えられませんが、その伏龍隊に命じられた若き海軍生は自分の体を兵器そのものにして稲村ヶ崎の海へと飛び込んでいきました。

棒の先端に機雷をつけて持ち、潜水服を着て海底に待機。
敵艦船が来たらその棒を艦底に突き刺し、自らの肉体もろとも爆砕するというもの。
ゴム製の潜水服を着て鉄兜をかぶり、兜にガラスをはめこむ。
酸素ボンベと苛性ソーダの入った空気清浄缶を背負い、呼吸は 『鼻で吸って口で吐く』 のが鉄則。
兜の呼気排出口へ吐いた息はゴム管を通り、背中の苛性ソーダで浄化される。
水にもぐるため腹部には鉛の錘をつけ足には潜水靴をはいた。

1960年代から付近の丘陵地が大規模住宅地として開発され、1969年(昭和44年)2月1日の住居表示で「稲村ヶ崎」の新町名が誕生しました。