長谷は鎌倉市南部に位置しており、東は材木座・大町、西は極楽寺・坂の下、北は常盤・扇ガ谷に囲まれています。また東西には長谷小路(現在の由比ガ浜大通りの一部)があり、南北には大仏坂切通しを結ぶ藤沢・鎌倉線が縦横に通じていて、長谷観音の門前で交わっています。

また東は長楽寺山、北西は大仏坂山、西は観音山の各山頂が、隣接する地域との境としています。(皇国地誌)

長谷の由来

長谷という地名の由来は、当地に建立された長谷寺にちなんでいます。長谷寺は大和にならって(大和長谷寺にならって)、寺の名をそのまま町の呼び名としたものといわれているので、「長谷観音信仰」の東国における一拠点であったことがわかります。

ちなみに、もともとは玉縄(たまなわもしくは甘縄(あまなわと呼ばれる地域だったと推測されます。

長谷の歴史

長谷寺は736年(天平8年)開創と伝えられていますが、はっきりとした文献は見つかっていません。唯一、当山に伝来する重文である梵鐘(ぼんしょう「文永元年(1264年)甲子7月15日新長谷寺」という銘文が確認されています。

ですので、少なくとも鎌倉時代後期には一山の寺容が整っていたものと推測できます。銘文にある「新長谷寺」と書かれていることからも、大和長谷寺に対して新たに建立されたものと考えられます。

しかし、こうした様子について、吾妻鏡には一切地名の記載が見られません。

当山に伝わる板碑(いたび懸仏(かけほとけなどの伝世資料の銘によって、鎌倉時代の後期から室町時代にかけて寺勢の盛であったことは容易に推測できます。

ちなみに、1333年(元弘3年)12月29日付の足利尊氏充行状押紙(おおし「相模国山内庄内長谷郷事」と見えるのが、地名としての所見と考えられます。(大日本古文書・上杉家文書)

中世以降の長谷

中世以降、高徳院長谷観音といった巨刹(きょさつが立ち並んだ長谷界隈は、本来深沢郷内に含まれ、またそれ以前は稲瀬(いなせ以西が鎌倉の区域外とも見られていたため、鎌倉権五郎景正(かげまさを祀る御霊(ごりょう神社甘縄(あまなわ明神社の存在から、当地域が大庭御厨(おおばみくりやの範囲内との推測もされます。(市史総説編)

いずれにしても、鎌倉西南部の山々に囲まれた要衝地(ようしょうちであったことは確かです。また鎌倉の辺境的な位置付けであったといえるでしょう。

なお、中世以来の旧跡も多く、高徳院の西側に位置する桑ヶ谷は、極楽寺の開山忍性によって病気の療養所が建てられた場所と伝わっています。

また、光則寺収玄寺など日蓮宗の寺院も点在しています。

長谷寺の裏山である観音山の山頂には、当時の鎮守として五社明神が祀られていましたが、1887年(明治20年)甘縄社と合祀されました。

近世以降の長谷

近世に入って、深沢甘縄、双方の土地を一部ずつ併せて成立したのが長谷村であることが記録されています。(皇国地誌)

物見遊山の場となった鎌倉の中でも、江の島参詣の経路でもあった長谷界隈は、鎌倉大仏坂東観音霊場の第四番札所である長谷寺への参詣者が絶えませんでした。

それもあってか、近世以降は旅宿などを経営する者も現れました。

現在の長谷

1889年(明治22年)の町村制施行によって、長谷村は西鎌倉村の大字(おおあざに含まれてしまいますが、1939年(昭和14年)からは鎌倉市の大字(おおあざになりました。

その間に、江ノ電の開通や大仏坂トンネルの開通によって、鎌倉⇄藤沢間の行き来が飛躍的に便利になりました。

1972年(昭和47年)10月1日の住居表記より、長谷1〜5丁目の新町名が生まれました。