相模湾に面した稲村ヶ崎(霊山ヶ岬)から材木座飯島までの総称を由比ヶ浜といいます。古くは由井・湯井などと当字され、前浜と飯島西方の西浜とから構成されており、全長約3.2キロメートルの海岸です。
相互に助け合う”結(ゆい)”
鎌倉時代、現在の長谷・由比ヶ浜・材木座一帯は由比郷という郷名で知られていました。由比郷の由来は、相互に助け合う労働組織のことを結(ゆい)と呼称していたためと言われており、結(ゆい)による漁業労働の組織がみられた地域ということで地名がついたと言われています。
吾妻鏡では、1180年(治承4年)10月12日条に「康平六年秋八月、潜勧請岩清水、建端籬於当国由比郷」と記されています。源頼義が当地に岩清水八幡宮を勧請したことを伝えています。
律令制下での郷名ではなく、頼朝が、鎌倉郷内の小字由比に郷名を付けたと推測されます。鎌倉期には、鎌倉郡の海岸一帯を由比浦、由比ヶ浜、前浜と呼んでいました。
鎌倉時代の由比ヶ浜
鎌倉時代には、笠懸・流鏑馬・犬追物など馬上の三物を催して、武技の鍛錬所として利用されました。また血なまぐさい戦闘の場でもありました。
1186年(文治2年)、義経の妾であった静(静御前)が子供(男子)を授かりますが、頼朝は「女子なら助けるが、男子なら殺す」と命じていたため、由比ヶ浜に沈められました。(吾妻鏡)
1213年(建保元年)の和田合戦では、敗走した和田義盛とその一族がこの浜で滅亡して、浜地に仮屋を構え首実検が行われました。(吾妻鏡)
『平家物語』巻第12の「六代被斬」では、平家の残党であった越中次郎兵衛盛嗣が但馬国(兵庫県)に生き延びていましたが、捕らえられて「由比の浜」で斬首されたことが伝えられています。
また、将軍家が伊豆・箱根の二所詣の際に、由比ヶ浜の潮で身を清めるのを恒例として、風の神をまつり、豊稔を願う風伯祭や七座百怪祭なども催されました。
1224年(元仁元年)6月6日、炎干による七瀬祓(平安時代以降、朝廷で毎月 または臨時に行った公事のひとつ)が由比ヶ浜などで行われて、この儀式は以後も続きました。
商業地でもあり葬地でもあった由比ヶ浜
西浜を中心とする材木座周辺は、多くの船が着岸して、倉庫も設置されて「鎌倉の商業地」という生産活動の拠点となりました。一方では「葬地」としての機能を持ち、現在では「由比ヶ浜中世集団基地遺跡」と称されています。
現在の御成町にあった問注所での裁判の結果の処刑場でもあり、現在の六地蔵の交差点の少し北あたり一帯に刑場があったとされています。
昭和10年頃、現専売公社の建設中に多くの人骨が発見されて、無縁仏として九品寺に埋葬されたのを手始めに、昭和28年には鈴木尚・三上次男氏らによる発掘調査で、55体の人骨と多量の馬・犬の枯骨が発見されました。
これらは、1333年(元弘3年)新田義貞の鎌倉攻めの戦乱で死んだ人々の遺骨であろうとされています。
平成の調査では鎌倉〜南北朝の土壙墓や頭部だけを集めた「集積骨」をはじめ、半地下式の「方形竪穴建築址」なども多く確認されており、由比ヶ浜がもつ多様な面をみることができます。
江戸以降の由比ヶ浜
1642年(寛永19年)には英勝院尼が由比ヶ浜で荼毘に附されたことが記されています。(徳川実記)
※荼毘に附す=死者を埋葬する
明治初期には由比ヶ浜は火葬場となっていました。しかし1884年(明治17年)長与専斎が当浜を「海水浴場の最適地」と紹介してから、広く知られるようになりました。
1934年(昭和9年)には久米正雄らが中心となって、由比ヶ浜を舞台に「鎌倉カーニバル」も開催されました。一時中断はあったものの昭和37年まで続きました。