腰越は鎌倉市の西南端に位置していて、七里ヶ浜江ノ島の中間地点にあります。江ノ電でいうと、鎌倉高校前駅江ノ島駅の間にあるのが腰越駅です。

腰越の由来

文献からみる腰越の由来

江ノ島縁起(1047年)
深沢地区にある湖に5つの頭を持つ悪竜がが住んでいて、村里に出ては子供を喰らうため、村人たちが泣く泣く住み慣れた土地を離れて他に移ったことにより、このあたりを「子死越」「子死恋」の字を充てるようになったのが、いつしか「腰越」に転訛したのだ、と記されています。

風土記稿(1804-1829年)
腰越の地形が、北方の小山(腰越山)が高く、南に低くて肥沃な土地が広がっていたため、人々が山の中腹(=腰)を超えるようにして移ってきたために名付けられた、と記されています。

その他の説
腰越の辺りは遠浅の海であったため。干潮の時には荷物を背負って渡ることができたので「背負越場」と呼ばれ、さらには「背負腰」で越えていく、という意味から「腰越」というようになった、とも言われています。

あるいは5頭の竜の難を逃れるため、村人が腰までに海水に浸かりながら移住していった、という説もあります。

腰越の歴史

文献からみる腰越の所見は?

「腰越」という字での所見は、吾妻鏡の中で1181年(養和元年)2月27日条「源頼朝に反した志田義広(しだよしひろ一党の首を当地にて晒した」と記されています。

その後も罪人の処刑場所としての記事が吾妻鏡鎌倉大日記などに散見されています。

源義経の腰越状

兄である頼朝から面会を拒絶され続けた義経が、鎌倉入りすることができず無念の日々を送っていたのが「腰越駅」でした。

※腰越駅
中世までに京都↔︎鎌倉間において街道が整備されましたが、鎌倉の西の境界として位置付けられた宿駅が「腰越駅」でした。鎌倉中期の紀行文である海道記にも「腰越といふ平山のあはいを過ぐれば稲村をいふ処あり」と記されています。

義経が兄への無念の思いを記した書状を頼朝側近の大江広元に託したのが『腰越状』です。現在の満福寺が義経一行の滞在場所だったといわれています。

満福寺には弁慶が書いたとされる『腰越状』の下書きや、弁慶が墨を磨ったをいう(すずり弁慶の腰掛石、弁慶が手を洗ったという井戸などがあります。

刑場であった腰越

義経の首が平泉から届けられた時、首実検が行われた場所もまた「腰越ノ浦」でした。(吾妻鏡)
また、1227年(安貞元年)には「腰越海辺潮赤如血」となったという怪奇現状も記されています。(吾妻鏡)

江戸時代以降の腰越

江戸時代初期の腰越一帯は、江戸幕府の代官がおさめる直轄地だったため代官がおかれていました。しかし、実質的には土地の土豪であった島村氏が取り仕切っていました。腰越の村人は島村氏による厳しい徴税や横暴に不満を起こし、村の分離を幕府に訴えました。

その後の1666年(寛文6年)幕府は腰越を村として扱う事を決めて、津村腰越村津村の二村にわかれました。

明治時代以降の腰越

●1889年(明治22年) 町村制が施行されて、津村と合併して腰越津村となりました。
●1930年(昭和5年)  腰越町として独立しました。
●1939年(昭和14年) 鎌倉町と合併して鎌倉市制が確立しました。
●1966年(昭和41年) 腰越1〜5丁目が誕生しました。