江ノ島は神奈川県藤沢市に位置しており、相模湾に浮かぶ島です。境川の土砂によって、片瀬海岸とつながった陸繋島でもあります。近江竹生島、安芸の宮島と並ぶ三大弁財天の一つです。
江ノ島の由来
由来については諸説あり
江ノ島の由来については以下のような説があります。
●「江(入り江)に隆起した島」であるからという説。
●島は絵の様に美しく最初「絵島」と呼んでいたものが「江之島」と呼ばれる様になったとする説。
●島と陸地のつながった姿が柄杓(ひしゃく)に似ているので「柄之島」から「江之島」と呼ばれる様になったとする説。
●島に東浦、西浦の他、入り組んだ海岸線を持つ地形から「江之島」と呼ばれる様になったとする説。
●島の形が漢字の「江」の字に似ていることから「江之島」と呼ばれる様になったとする説。
江ノ島の歴史
江ノ島の誕生
江ノ島は今からおよそ2万年前、沈降運動により片瀬側と離れ独立した島となったと言われています。島内に植物園内遺跡があり、縄文後期から弥生時代にかけての土器片が発掘されています。
また江島縁起(1047年)によれば、552年4月12日夜に大地震が発生して、23日の朝までの21日間大地が震動し、海底より砂が吹き出し、江ノ島ができたといわれています。
その様子は、『天女が十五童子を従えて現れ、江の島を造った』と表現しています。社伝では、『欽明天皇の
そして欽明天皇(509年-571年)の勅命で岩屋(御窟おんいわや)に神様を祀ったのが、江島神社のはじまりであると伝えられています。
●552年(欽明13年) 大地震により江ノ島湧出。江島神社創建(江島縁起)
●672年(白鳳元年) 修験道の開祖、
●814年(弘仁5年) 空海が岩屋本宮を創建
●853年(仁寿3年) 慈覚大師が上之宮(中津宮)を創建
鎌倉時代の江ノ島
1182年(寿永元年)に源頼朝が奥州藤原氏の調伏祈願を行うために、
1216年(健保4年)の正月、地震が発生して江ノ島が陸続きになり、干潮時に歩いて渡れる様になったと言われています。以来、人々は干潮時には歩いて渡り、満潮時には「渡し舟」か「人足」が背負って渡っていました。
以来、江ノ島が陸続きとなったことをきっかけに、将軍をはじめ武家の信仰を集めるようになりました。
1504年(永正元年)、北条早雲は山内
江戸時代の江ノ島
1600年(慶長5年)6月、徳川家康が江ノ島神社に参詣しました。この後、武士だけでなく庶民にも江ノ島詣が流行しました。
相模大山は雨降り山と呼ばれ霊山として崇められてきました。大山は男神、江ノ島は女神に例えられて、大山山頂の石尊社への登拝期は江ノ島弁財天開帳、祭礼期にあたることから両者をセットで参拝することが流行しました。
また江戸時代には、全島が江島三社(本宮・上之宮・下之宮)の朱印地となりました。
明治時代の江ノ島
明治に入ると神仏分離政策が断行されて、岩本院・上之坊・下之坊の僧侶は復帰し神主となります。これによって島全体から仏教は一掃されました。
また江ノ島へ架かる桟橋はこの頃から建築されるようになりました。
●1891年(明治24年)
片瀬側の州鼻から江の島口に始めて川口村村営の桟橋が架けられました。最初は島口よりの負越場(おいこしば)だけでした。島口よりは常に海水が岸をひたしていたのと、度重なる修繕が必要だったため、負越賃(1銭5厘)を徴収していました。まだこの時は、台風が来たり大雨が降ったりするたびに流されてしまう原始的なものでした。
●1897年(明治30年)
江の島参詣者が年を追うごとに数を増してきたので、1年中自由に島渡りできるようにと、州鼻口から島口まで全長380間(1間は1.82m)に橋を架けました。渡橋賃は片道1銭5厘、往復3銭を徴収しました。
●1923年(大正12年)
関東大震災の発生により江の島桟橋が津波にさらわれてしまいました。
●1948年(昭和23年)
コンクリート製の強固な江の島弁天橋の工事が始まり、同24年3月31日竣工しました。