材木座は鎌倉の中央部を流れる滑川の東岸海岸を指します。現在は逗子市小坪と東の境を指し、南は相模湾に面しています。滑川を境に、東側を「材木座海岸」、西側を「由比ヶ浜海岸」と呼んでいます。
材木座の由来と歴史
文献からみる材木座の由来
材木座には海岸東側に鎌倉時代に築港された「和賀江島」があります。『風土記稿』によれば、その昔当時は「和賀」と呼ばれていたといい、鎌倉時代に入って材木を扱う商工業者組合である「座」ができたことで名付けられたとあります。
「座」とは、販売や製造の独占権をもっている組合のようなものです。当時は鎌倉七座(米座、相物座、博労座、炭座、材木座、絹座、千朶積座)が存在していました。
「和賀江島」の「和賀」は材木座の古称と言われていますが、東北の北上川運搬に関わる山形県和賀川のさき、寒河江や岩手県和賀町などと関係するアイヌ語という説もあります。
材木座の歴史
材木座の歴史を紐解いていくと、1180年(治承4年)に源頼朝が鶴岡八幡宮を造営するときに、その建材は材木座海岸から人夫たちによって陸揚げされて若宮大路を運んだとされています。
その人夫たちが勇ましく謳ったのが、現在も愛唱されている「鎌倉天王譜」だと伝えられています。
1253年(建長5年)、『吾妻鏡』の十月十一日条によると、「和賀江島ノ津の材木」の寸法を定めた法令が出されています。このことから鎌倉時代中期にはすでに相当大勢の材木座業者が存在し、そこに暮らしていたのがわかります。
1261年(弘長元年)『伊豆法難』によると、材木座海岸に注ぐ「豆腐川」の河口は、日蓮が伊豆に流される際に船が出た場所といわれています。
また1308年(収得治3年)には『金沢文庫古文書』によると、被災した極楽寺修造のために金沢宗清が、「浜の材木売」と苦心の値段交渉を行っている様子や「といくるま(問車)」という材木運搬専門の業者の存在などが記されています。
鎌倉時代には当時の管轄は極楽寺であったことが、『極楽寺文書』などから確認できます。
また1367年(貞治6年)九月五日付の足利義詮御教書によれば、「鎌倉材木座」を佐々木道褒に返付する命令が出されています。南北朝の動乱でいつしか佐々木氏の所有になったのでしょうか。
坂ノ下の御霊神社の境内社石上神社の神輿は、材木座海岸に打ち上げらた材木で造られたという言い伝えがあります。
江戸時代には『元禄郷帳』に材木座と記されているのが確認できます。石高三十二石余り、永十貫文とあります。
また『風土記稿』によれば、当時の材木座の住民は漁業を生業として、カツオ・エビ・カジカ等の良い漁場が多く、三十七隻の漁船を所有していたことが記されています。
材木座に存在する妙長寺は当初は沼浦に建築されたとありますが、1681年(天和元年)の津波によって流されてしまったため、現在地へ移ったといわれています。
現在の材木座は1〜6丁目の新町名となっており、昭和三十九年から住居表示されるようになりました。
2013年に材木座海岸の命名権を鎌倉市が売り出しました。地元の菓子店・豊島屋『鳩サブレー』が10年契約で権利を取得しましたが、名称変更せずに現在も「材木座海岸」として人々に親しまれています。