鎌倉の由比ガ浜と七里ガ浜を分けるように突出した岬を稲村ヶ崎といいます。

文献からみる稲村ヶ崎の由来

万葉集(まんようしゅう(7世紀後半から8世紀後半)
日本に現存する最古の和歌集である万葉集のなかに、奈良時代の鎌倉に関する記述があります。鎌倉には「見越しの崎」または「御輿の崎」「神輿の崎」と呼ばれる地名があったことが、万葉集の和歌の一節からわかります。

鎌倉の 見越しの崎の 岩崩(いわくえ)の 君が悔ゆべき 心は持たじ

と詠まれています。

この歌の意味は「鎌倉の見越の崎の崩れやすい岩のように、あなたが後悔なさるような浅い心など、私は決して持ちません。」といったところです。

この「見越しの崎」がどこを指すかについては、長谷の甘縄神社裏山という説と稲村ヶ崎という説、また腰越の小動崎説があるそうですが、確定はしていません。岩崩(いわくえ)というのは岩が崩れること、また、崩れた所を意味するので、稲村ヶ崎説か小動岬が有力でしょう。

風土記(ふどき(713年)
風土記には、稲村ヶ崎の形が稲束を積み重ねた稲叢(いなむらに似ていることからその名が付いたと記されています。

新編鎌倉志(1685年)
極楽寺切通しへ通じる稲村ヶ崎付け根あたりの村落を「稲村」と称していたことに由来すると記されています。

なお、古くはこの岬の東側を「霊山(りょうぜんヶ崎」、西側を「稲村ヶ崎」と呼んだようですが、現在では稲村ヶ崎の地名だけが残りました。